ま。
「(あなたの)考える目的はなんだ?」と問われた気がした。
楽しいから、なんだと思う。
ああ、たしかに、みんな「考えること」を道具にして幸せになることを目指しているし、そのように考えることができる人こそ、考えることに向いているというのだろう。
ひょっとして、目的をもって考えないといけないのかな……。
これはちょっと、県民性みたいなものもあるんじゃないかな。考えることを娯楽にしてしまうところがある。本当に、知的さみたいなものを演出したいわけじゃないんだ。。
それにしても、どうして問いが突然、下りてくるんだろう……。
頭のなかでふっと声が聞こえるんだよね、とても不思議だ。だけど、感謝です。ありがとう(私は、神秘的なものが本当はとてもこわいけど、こわいと言ってばかりじゃだめよと、先日の山ガールに言われたばかりなのです)。偶然なのかな、今日(今日ってもう日付かわっとるがな……)書こうとしてたことにリンクしてんだよね。
書きたかった記事というのは、ひらがなの「ま」について。
十数年前かなあ、京都行ったときに祇園祭を見る機会があったんだ。
人だかりのなか河原町の交差点で見てたんだけど、山鉾(山車)が曲がるのに、すごい時間がかかるし、「青竹を敷いた上に車輪を乗せて向きを変える」というやり方(辻まわしというらしい。そう、京都に出張行くたびに思うんだけど、あっちは、たとえば四つ角のことを、四つ辻って言うんだよね)。
たしかに10トンという山車の重さを考えると拍手喝采、というのはわかるんだが……。そういえば、毎度死者が出てニュースになる岸和田の「だんじり」も、曲がることに歓声が上がるよなあ。
関東での暮らしに慣れた私には正直、「西日本って曲がることになんかあるんかね?」「そんなにすごいことなんだろうか」と思えた。東京の神輿とかでは角を曲がったとしても、歓声というものは上がっただろうか。。でも、それが「曲がる=『ま』がある」……つまり、魔があるところを、うまく曲がることができたから、なんじゃないだろうか、と思いついて、時折「ま」について考えるようになった。
そしたら、先日日本語のひらがなを研究している女性とお話しする機会があったんだー。
元来、ひらがなは漢字を崩したもので、言霊というか、その一文字にすでに沢山の意味がこめられているらしい。
彼女曰く「ま」とは……。「まあい」「おしばいの『ま』」など、空間や時空のすきまをさしたり、「まちがい」「まぬけ」など、空気が読めないみたいなこともさすし、「あくま」「まがさした」など、こわいものを指すことも多いが、心掛けしだいで「『ま』こと」にもなるのだと。
つまり「ま」とは、鏡のようなもので、自分が作り出すもの。
与えられるものを「間」違えて受け取ってはいけないという話だった。
しかしこれって相当ハート強くないとできないことだと思う。。
与えられたものを正しく受け取るって、とても難しいこと。
だから、自分はどのように曲がるか、なんだと思う。局面をね。
これはもはや、私にとって宿題。
一つだけ今、答えがあるとしたら「まえむき」さ、ぐらい。
そしたら「からだのこえをきく」という本のなかで「間」について書いてある記述が目に飛び込んできた。村上龍もサルサとか日本人が踊れない理由は、「間」ではないかと言及しとったけど……。
本書では「日本では、視覚と聴覚が同等に近い位置を持って」いたらしい……が、それを今から考えはじめるとちょっと眠たいんで無理……。私は直感的に「ま」とは、時間と空間が交差する意味をふくんでいるような気がするんだけど(光の反射のような、屈折のようなね)、今日はそれを実証するパワーがありません。。それこそ何十年後かに、またヒントとなるような機会に恵まれるのかもだし。
いろんなジャンルの話がクロスオーバーしていくんだろうね。
最初の問にあらためて答えるとすれば、、与えられたものを間違って受け取ってはいけないというなら。
私は、みんなとよりよく過ごすため……何よりも、誰かとよりよく過ごすための手段として、考えているよ。
はーっ、右肩がなんか痛い……。
明日には治ってますように。
おやすみー。
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